北西イタリアの世界遺産について〜世界遺産へ旅立つ前に

北西イタリアの世界遺産をめぐる〜世界遺産旅行ガイド
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トリノの街並
 イタリア北西部といえばトリノ、ミラノ、それからジェノヴァあたりが有名でしょう。北西イタリアの世界遺産をご紹介する前に、まずは北西イタリアの主要都市について、簡単にその地理・歴史をご説明したいと思います。イタリアの世界遺産をただ漫然と眺めるよりも、イタリアという国自体の成り立ちに少しでも触れてから世界遺産の話に移ったほうが、きっとより多くのことを知れると思うので。


◎北西イタリア:ピエモ
 イタリア北西部といえばトリノ、ミラノ、それからジェノヴァあたりが有名でしょう。北西イタリアの世界遺産をご紹介する前に、まずは北西イタリアの主要都市について、簡単にその地理・歴史をご説明したいと思います。イタリアの世界遺産をただ漫然と眺めるよりも、イタリアという国自体の成り立ちに少しでも触れてから世界遺産の話に移ったほうが、きっとより多くのことを知れると思うので。


◎北西イタリア:ピエモンテ州にまつわるエピソード
 〜サルデーニャのイタリア統一(リソルジメント)

 ピエモンテ州はイタリアの最西端に位置する州で、州都はトリノ。西側ではスイス・フランス・モナコとそれぞれ国境を接しています。名産品はトリュフやワイン。歴史上、長いことフランス語圏と接していたことから、フランスの影響が特に強い地域です。
 ここでは、ピエモンテにまつわるイタリア史のエピソードをご紹介しましょう。
 かつて、イタリアは長きにわたって統一がなされず、バラバラに分裂していた時期が続いていました。諸侯・貴族の統治下にある一部地域や貿易などで発展した大都市、それからローマ教皇領だけが独立状態を保ち、それ以外の地域はオーストリアやフランスといった周辺の強国に従属している状態だったのです。
 しかし19世紀に入って、このイタリア半島を統一しようと立ち上がった1人の国王がいました。イタリア半島の付け根付近に位置する小国:サルデーニャ王国のヴィットーリオ=エマヌエーレ2世です。この国はサルデーニャ島という島に本拠を持ち、他にはイタリア半島西部のピエモンテ地方付近を統治下に収めているだけの弱小国でした。ですが、ヴィットーリオ=エマヌエーレ2世には優れた参謀であるカヴールという部下がおり、そのカヴールの判断の下、9世紀のロタール王国(中部フランク王国)以来となるイタリア半島の再統一を開始したのです。
 カヴールはオーストリア勢力をイタリア半島から排斥するため、フランスのナポレオン3世(ルイ=ナポレオン)の力を借りることにしました。フランスとオーストリアの対立を利用して、イタリア半島の独立に乗り出したわけです。そして、協力の見返りとして、当時サルデーニャ領だった2つの地域、ニースとサヴォワ(サヴォイア)をフランスに割譲する約束をしたのでした。
 このニース・サヴォワという2地域は今でもフランス領となっており、ちょうどピエモンテ州に隣接するあたりの地域です。元々フランス語を話す住民の多い地域であったことから、フランス側はずっと併合の機会を窺っていたんですね。
 さて、カヴールの策謀は見事に的中し、フランス軍の力を利用してオーストリア勢力を後退させることに成功。その後、サルデーニャが力をつけすぎることを嫌ったフランスは「もう約束した分の仕事は果たしただろ?」とばかりにオーストリアと単独和平を結んで戦線を離脱してしまいますが、カヴールはこのフランス側の思惑さえも利用します。ナポレオン3世に対して、すぐにはニースとサヴォワを渡しません。カヴールは、当時フランスの勢力が置かれていた中部イタリア一帯をサルデーニャが併合するのを認めることを交換条件として突きつけました。
 当時のヨーロッパはナショナリズム全盛の時代。自国の言語を母語とする地域を併合することは、権力者が国民からの人気を維持する上で不可欠でした。ナポレオン3世の立場としても「今さらニース・サヴォワが手に入らなかった」というのは非常にまずかったわけです。さらにフランスはオーストリア・プロイセンという2つの強国と一触即発という状態が続いており、そんな状況でサルデーニャ相手に戦争を始めるわけにはいきません。下手をすれば同時に3ヵ国を相手に戦うという絶望的な状況になりかねないのですから。
 ヨーロッパの国際情勢を掴みきっていたカヴールの計算は的中し、大国フランスを率いるナポレオン3世が新興国であるサルデーニャ側の要求を丸飲みさせられる形になりました。こうして、フランスはニース・サヴォワという2つの小さな地域を、サルデーニャ王国は中部イタリア全域(ローマ教皇領は除く)を併合することになったのです。
 さて、ここから先はピエモンテ州との関係が薄くなってしまうとはいえ、ここまで来てしまったのですから「イタリア統一」という一大事業のその後をお話ししましょう。
 この後、サルデーニャは南イタリアを併合するために動き出さねばならないのですが、この時には既に南部イタリアは1人の英雄によって統一が進んでいました。その英雄の名前はガリバルディ。たった1000人の軍隊を率いる小勢力の反乱軍から始まったにも関わらず、瞬く間にシチリア島と南部イタリアを統一してしまったという驚異の人物です。
 ですが、カヴールはガリバルディが野望を持たない好人物であり、イタリア人を外国勢力から救うために統一しただけであることを知っていたので、サルデーニャ側から戦争をしかけることはしませんでした。代わりにガリバルディに対して「まずは一度、うちの国王と話をしてみないか?」と持ちかけます。
 結果としてガリバルディは、民心をしっかりと掴み誠実な政治を続けるヴィットーリオ=エマヌエーレ2世の人柄を知って、最終的に自分が統一した全領土をヴィットーリオ=エマヌエーレ2世に献上、自身は表舞台から引退することを決めました。こうして、サルデーニャ王国は無血で南部イタリアを併合、ここにイタリア王国が誕生したのです。
 これで残るは未だにオーストリア勢力が残るヴェネツィアや、フランスの影響が強いローマ教皇領などの数地域のみというところまで辿り着きました。
 しかし、ここで名参謀カヴールが病に倒れるという悲劇が起こってしまいます。それでも病床の中でカヴールは、国王であるヴィットーリオ=エマヌエーレ2世にこう指示をしました。
「遠からず、プロイセンとオーストリアがドイツ地方の覇権をめぐって戦うことになるでしょう。勝つのは間違いなくプロイセンですから、プロイセンの側について、その間にヴェネツィアを併合しなさい」
「それから間もなくして、プロイセンはフランスと戦争状態になるでしょう。ここでもプロイセンが有利ですから、プロイセン側についてフランスに宣戦し、隙を見てローマ教皇領を併合できるはずです」
 カヴールの死後、この読みは見事に的中します。立て続けに発生した普墺戦争(プロイセンvsオーストリア)・普仏戦争(プロイセンvsフランス)でプロイセンが完勝。その間にイタリアはヴェネツィアとローマ教皇領を併合しました。こうして、長く続いた分裂状態は解消し、イタリアの主要地域が統一されたのです。
 以上、ピエモンテ州付近から始まり、最終的にはイタリア全域へと進んでいったサルデーニャ王国のイタリア統一に関するお話でした。


◎北西イタリア:ミラノにまつわるエピソード
 〜ロンバルディア同盟

 北西イタリアのロンバルディア州の州都:ミラノ。サッカーでは、セリエAのACミランやインテルが本拠地としていることで知名度の高い都市です。このミラノ、実は中世の時代からイタリア半島の諸都市をまとめ上げる中心都市だったことはご存知でしょうか?
 こちらでは北西イタリアの都市:ミラノに関するエピソードをお話しします。
 中世のイタリア半島は小国が割拠する分裂状態が続いており、イタリア全体を統一し得るだけの軍事勢力が存在しませんでした。
 そんなイタリアの状況を見て、北イタリアを自国の支配下に置こうと侵攻してきた巨大な領邦国家がありました。現在のドイツ・オーストリア・東欧の一部などの諸侯が連合した形態の大国:神聖ローマ帝国です。
 当時のホーエンシュタウフェン朝:神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世は「ローマ帝国の後継者である神聖ローマ帝国がローマを含む北イタリアを支配下に置く権利がある」という不可解な理屈で北イタリアに侵攻しました。これをイタリア政策と呼び、世俗的権威の神聖ローマ皇帝と宗教的権威のローマ教皇の間に続いていた対立――皇帝派(ギベリン)vs教皇派(ゲルフ)の争いが関連しています。
 これを受けた北イタリアの都市ミラノは、戦乱によって貿易等の流通が混乱すること・都市が独立国家の形態を有している自由都市にとって皇帝の権威が存在するのは不利益であること、などの理由から反神聖ローマ帝国の軍事同盟を設立します。これがロンバルディア同盟で、最終的にはボローニャ・ベルガモなどのロンバルディア地方30都市が連合して神聖ローマ帝国軍と激闘を繰り広げました。ローマ教皇アレクサンデル3世の指示を取り付けたことが急速な拡大の一因でしょう。このロンバルディア同盟は、フリードリヒ1世が率いる神聖ローマ帝国軍をレニャーノの戦いに破り、都市の自治権を死守することに成功しました。
 その後、フリードリヒ1世の息子であるフリードリヒ2世の代になると、再び神聖ローマ帝国は北イタリアへ侵攻を開始。この時はロンバルディア同盟軍が敗れてしまいますが、その後もミラノを含む6都市だけは降伏を拒否して抗戦。最終的にフリードリヒ2世を撤退させることに成功しています。
 フリードリヒ2世の死後、ホーエンシュタウフェン朝が断絶――神聖ローマ帝国の勢いが弱まってイタリア政策が下火になるにつれ、ロンバルディア同盟も自然消滅していきました。ここからの中世後期、神聖ローマ帝国は無理なイタリア侵攻で内政を疎かにした報いを受けるような形で、内部での権力争いが激化。皇帝が数年おきに入れ替わったり、地域ごとに別の皇帝を推薦して争ったりを繰り返して統一皇帝の存在しない大空位時代を迎えます。神聖ローマの権威は失墜し、長い暗黒時代に入りました。次に神聖ローマ帝国が歴史の表舞台で活躍するのは、ハプスブルク朝が全盛を迎える中世後期から近世にかけての時代になります。


 さて、イタリアがどんな成り立ちを持った国なのか、少しは見えてきたでしょうか? 次のページからは北西イタリアの世界遺産を実際に見ていきましょう。



※当ページで使用している画像はwikipediaからの引用です。
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